2012年春、新校舎竣工が近づいて移転の準備をすすめている中で、使い古して傷ついたピアノが器具室から見つかりました。
それは世界の名器といわれるスタインウェイ社のピアノ。なぜ、そんな貴重なピアノが香住小学校にあったのでしょうか・・・。
■香住小学校にスタインウェイピアノが来た日
山陰の小さな漁村、香住村が町制を施行し香住町となった翌年の1926(大正15)年夏のこと。香住小学校では、1895(明治28)年の創立時に初代校長だった山田喜代松先生が復帰して第3代校長をつとめていた時代です。
当時の小学校ではピアノがまだ珍しく、オルガンが主流だった時代で、実際に城崎郡内の小学校でピアノがあったのは豊岡小学校だけだったといわれています。(注1)
そんな中、まちの希望である子どもたちの音楽教育、豊かなこころを育む情操教育のためにと、山田校長がピアノ購入を思い立ちます。
そして、子どもたちが一流のものにふれる機会を作れるようにと、国産のものではなく世界の名器といわれるスタインウェイ社のピアノ購入が計画されたのです。(注2)
総理大臣の年俸が800円といわれる時代に2,450円もの高額のピアノです。田舎まちの小学校にとってはあまりにも高額な買い物ですが、当時は町制の施行、新港建設など町づくりの機運が高まっていた時期で、町の人々も山田校長の強い想いに賛同し寄付する人が多かったといわれています。(注3)
自分たちの町の未来とそれを担う子ども達への期待の表れだったのでしょう。
1926年7月26日に大阪の三木楽器よりスタインウェイO-180型のピアノが購入されました。
到着したのは一学期終業式前日の7月29日。翌日の終業式で山田校長が「ピアノを買ったので大切にするように」と全校児童にピアノ購入を発表しました。
そして夏休みに入った8月5日~8日の4日間、おもに先生たちを対象としたピアノ購入記念の音楽舞踊大講習会が小学校講堂で行われ、その講師として、作詞家の野口雨情(のぐちうじょう)、作曲家の中山晋平(なかやましんぺい)、山本正夫(やまもとまさお)、杉江秀(すぎえしゅう)、佐々木すぐる(ささきすぐる)、舞踊家の島田豊(しまだゆたか)というそうそうたるメンバーが来校されました。(注4)
このスタインウェイピアノ購入がいかに大きな出来事だったのかをうかがい知ることができます。
(注1)当時は城崎郡豊岡町。
(注2)ベヒシュタイン、ベーゼンドルファーと並んで、世界のピアノメーカー御三家の一つと言われています。
(注3)寄付の他に毎月2銭ずつ積み立てた記念基金が充てられたといわれています。
(注4)野口雨情=主な作品「シャボン玉」「赤い靴」「七つの子」など。中山晋平=主な作品「シャボン玉」「背くらべ」「兎のダンス」など。また、この時の縁がきっかけで長井小学校の校歌を野口雨情作詞・山本正夫作曲で制作したといわれています。
■その後のスタインウェイピアノ
その後ピアノは音楽の授業や学校行事などに使われました。もちろんとても大切に扱われ、音楽の先生以外はほとんど触ることを許されなかったと伝えられています。戦後になると、校区の拡大や人口増加にともなって増えていくたくさんの子どもたちに美しい音色を聞かせてきました。
そして、1970(昭和45)年に新築された北校舎の第一音楽室に移動設置されましたが、傷みがはげしくなってきたため、その後簡易的な修復が行われました。
その後、1995(平成7)年の100周年を機に新しく寄贈されたピアノにバトンタッチして、その役目を終え、器具室に眠ることになりました。
このように歴史を見直してみると、昭和の時代に香住小学校に通っていた人を中心に、多くの人が一度はその音色を聞いたり触れたりしたであろうという思い出のピアノがこのスタインウェイピアノなのです。
■歴史を未来につなぐシンボルへ
1979(昭和54)年に一部が残っていた木造旧校舎が取り壊され、1997(平成9)年に香住小学校のシンボルであった「大松」が伐採されました。
そして、今年2012(平成24)年には新校舎への移転に伴い、北校舎、南校舎も数十年におよんだその役目を終わらせることになりました。
これによって、明治・大正・昭和・平成とつづく長い歴史と、ここに学んだわたしたち卒業生の思い出がしみこんだ光景が途絶え、香住小学校をとりまく景色は新たなものとなっていきます。卒業生としては一抹の淋しさを感じずにはいられません。
しかしそんな中、校舎移転準備にともなって香住小学校の歴史をつなぐスタインウェイピアノが見つかったのです。
初代校長や大正末期・昭和初期の町の人達の気概や想いがつまり、様々な時代の卒業生の思い出につながるピアノです。
香住小学校にとって歴史上大きな転換点となるこの年にわたしたちの前に姿をあらわしてくれたこのピアノを、大切に後世に伝えていくこと、そして、子どもたちに対する購入当時の人々の想いをもう一度思い出すことが、今を生きるわたしたちの役割ではないでしょうか。